磁気秩序を伴わない時間反転対称性の破れ

スピンアイスとその量子融解

 

 


ではなぜこのような「磁気秩序を伴わない時間反転対称性の破れ」が発生するのでしょうか?我々は、最近執筆した論文で指摘している通り、パイロクロア格子系磁性体 Pr2M2O7 (M =Ir, Sn, Zr)に共通して見られる以下の事実に着目し、理論的有効量子模型の導出とその解析を行いました。そこでは、以下で説明する通り、水の凍結現象に現れる幾何学的フラストレーションと、電子の量子性の二つの要素が重要になっていると考えられます。
氷における幾何学的フラストレーションとスピンアイス
水 H2O 分子が結晶化した氷では、H+イオンがパイロクロア格子構造(図3 A)の頂点の位置から少し変位します。水素結合のために、その変位の向きは、この点を共有する2つの正四面体の中心に位置する O2-イオンのうち、どちらかの向きに制限されます。つまり、正四面体の4つの H+イオンのうち、2つが中心方向内側に、残り2つが外側に変位するわけです(図3 B)。このように、各 O2-イオンが結合する相手である二つの H+イオンの選び方は、各酸素あたりに6通りあります。これが結晶全体では、巨視的な場合の数として現れます。
氷の場合と類似した幾何学的フラストレーションが、パイロクロア格子系磁性体 R2Ti2O7 (R =Dy, Ho等)でも観測され、スピンアイスと呼ばれています。

 

 

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図3:A) パイロクロア格子構造。正四面体のネットワークを構成する赤丸は、氷では H+イオンの基準位置、Pr2M2O7 では Pr3+イオンが位置します。 B) 正四面体における “2-in, 2-out” 構造。

氷では H+イオンが、磁性体では磁性を担うイオンの磁気モーメントが正四面体の中心方向を向き、4つのうち2つが内側、2つが外側を指します。
量子効果Pr イオンを構成要素に含んだパイロクロア格子系磁性体 Pr2M2O7 (M =Ir, Sn, Zr)は、上述の古典的スピンアイス系に、比較的大きな量子揺らぎが導入された系としてとらえることができます。Pr3+イオンに束縛された磁気モーメントの向きは、パイロクロア格子の構成要素である正四面体の頂点から中心に向かう方向に拘束され、in/out の2自由度(非クラマース磁気的二重項)をもったイジングスピンで記述されます。この点は古典的スピンアイス系 R2Ti2O7 (R =Dy, Ho 等)と共通しています。特に、Pr2Ir2O7 の良質の単結晶を用いた実験では、極低温で[111]方向の印加磁場下でメタ磁性転移(図4)を起こします。これは 2-in, 2-out 構造をとる各正四面体で1つのスピンが磁場と反対方向を向いていたものが、磁場の方向に強制的に反転し、3-in, 1-out あるいは 1-in, 3-out の構造に転移するときに生じる現象です。これは、各正四面体がゼロ磁場で主に 2-in, 2-out の配置(図3 B)をとり、スピンアイス則がある長さ・時間スケールで満たされていることを示唆しています。メタ磁性転移の磁場スケールからモーメント間の有効強磁性結合定数は 1.4 K(~1.6 meV)と見積もられました。また、これらの物質の多くは、古典的スピンアイス系と異なり、磁化率が発散的な振る舞いを示しません。Prイオンの磁気モーメントは、Dy イオンの場合の 1/4~1/3 と小さいことから、磁気双極子相互作用が0.1K 程度と 1 桁小さな値になっています。したがって、量子力学的な超交換相互作用が主要な相互作用となることが想定されます。実際、Sn 系における中性子散乱実験では、磁気的な Bragg ピークが出現しません。また、一見古典的スピンアイス系と類似しているものの、非弾性散乱スペクトルが 0.2meV 程度(上記の有効相互作用と同程度)までの広いエネルギー領域に強度が大きく分布しています。これは、古典スピンアイス系に比べて磁気モーメントの量子揺らぎが極めて大きいことを意味しています。このように、幾何学的フラストレーションと量子揺らぎの両方があることで、従来型の磁気秩序がおさえられ、代わりに、スピンの高次の自由度であるスピンキラリティーの秩序によって時間反転対称性を巨視的に破る、キラルスピン液体が実現している可能性が考えられます。また、スピンアイス則を満たし、かつ、磁化がゼロになるという制約の下で、キラルスピン構造を実際に作ることが可能であることを例証し、その場合に実際にホール効果が発生することを理論計算から示しまし
た。

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図4 A) 3つの隣接する非共面な配置をとるスピンによって、スカラースピンカイラリティーkijk = Si・Sj×Skが定義されます。B) Pr2Ir2O7の結晶構造。Pr原子(赤丸)とIr原子(緑丸)はそれぞれパイロクロア格子を組みます。Prモーメントは各四面体の重心方向に向くか、それとは反対方向に向くかの2通りの自由度しかもたないイジングスピンです。青と赤の矢印で示されるモーメントを持つPr原子の位置では、零磁場では青色の向きが安定で、二つのスピンが内向き、二つのスピンが外向きという、所謂、スピンアイス則を満たしていると考えられます。[111]方向の磁場中ではメタ磁性転移を経て赤色の向きが安定化します。[100]および[110]方向の磁場下ではメタ磁性転移を起こしません

 

 

原文

http://www.riken.jp/lab-www/cond-mat-theory/onoda/Pr2TM2O7_j.pdf